パパがオタクじゃ駄目ですか?

オタクなパパが日常を綴ります。

Twitterラヴァーズ

本日でTwitterのサービス開始から10年だそうです。 

今やTwitterは単なるSNSの枠に留まらず、企業や官公庁、国のトップにまで利用される「社会インフラ」として、誰にとってもなくてはならない存在となりつつあります。
開発段階で「単なるSNSではなくコミュニケーションプロトコルを目指した」Twitterですが、当初から今と同じように万人に受け入れられるようなサービスであった訳ではありません。

Twitterが日本で大々的に流行しだしたのは2010年頃であったと思いますが、当時は独特な空気感がありました。
僕自身が初めてTwitterに登録したのも確か2009年、日本でTwitterがちょっとずつ盛り上がり始めていた頃の事でした。
その頃のTwitterは、利用者の大半がいわゆるギーク層で、今のように中高生が何も考えずに書き込んで炎上する、なんてことはほとんどありませんでした。

なんというか、「Twitterユーザーである」ということ、それ自身だけでコミュニティができてしまうような、ある種の仲間意識があったような気がします。

津田大介さんが、「tudaる」なんていってTwitter実況をしているのをみんなで楽しんだり、共通の話題でTwitter全体が盛り上がったり(当時の『バルス祭り』の熱気は、今と比べ物にならないくらいすごかった気がします)。
当時は「Twitterが世界を変える!」なんてことが真面目に議論されていて、みんな「それはさすがにないよー」なんて言いながら、こころのどこかで「そんなこともあるかもしれないな」と思っていました。


さて、それから数年経ち、いまやTwitterギーク層に限らず老若男女、学生から政治家までがみんな認知するような、「あって当たり前」の存在になりました。
官公庁の広報から企業のカスタマーサポートまで、公的な活用も進んでいます。
また、Twitterを通して有名人と一般人がコミュニケーションを取るというのも今では見慣れた光景です。

一方、中高生が何も考えずにTwitterに犯罪行為を書き込んで炎上したり、それがニュースになったり、負の影響も目立つようになってきています。

いずれにしても、確かにTwitterは社会を変えたのかもしれません。


ただ、日本のTwitter黎明期に見られたような、コミュニティ意識はもはや跡形も無くなってしまいました。
各コミュニティやクラスタごとに共有意識はあるでしょうが、Twitterそのものはあって当たり前で、それ自身に仲間意識が芽生えるようなことはもはや無いでしょう。
これだけTwitterが普及した以上当然ですが、個人的にはちょっと寂しいですね。


あと、Twitterが普及したことによって、改めて感じたことが一つあります。
これは、LINEなんかでも共通することですが、「どんなツールを使おうが人間は人間だ」ということです。
コミュニケーションの取り方が、対面なのかネット上なのかというだけで、相手がいることには変わりがないですし、どこまでいっても最後は対人関係なんだな、ということを改めて痛感しています。

結局ね、一緒にいて楽しい奴は楽しいし、嫌いな奴は嫌いだし、いい言葉かけてもらったら嬉しいし、嫌なこと言われたら嫌だし。
ネットだろうがリアルだろうが、気遣いは絶対に必要だし、悩むことだってあるんです。

まあ、そんな当たり前のことに改めて気づかせてもらったという意味では、Twitterにはちょっと感謝しています。


さて、これから10年後の、Twitter20週年の時には、Twitterと社会はどんなふうになっているでしょうか。
バラ色の未来とまではいかないにしても、今よりもちょっとでもマシな世の中になっていればいいなあと心で祈りながら、ここらで筆を置きたいと思います。

まとまりのない長文をここまで読んでいただき、ありがとうございました。
では。